地域情報

今、東日本橋とよばれているのは両国橋一帯と神田川ぞいの柳橋などの一帯で、今は高層ビル街でもあり、一部に会社、商店のある町といってよいでしょう。戦災 によって手ひどく打撃をうけ、すっかり街の姿が変わりました。
昭和46年4月の住居表示実施により、いろいろな町名を統一して、東日本橋1丁目から3丁目に分けたもので、古い町名が7つもなくなっているのです。


東日本橋地区

 今の東日本橋とよばれている町、両国一帯の地域は昭和46年4月の住居表示実施によって、米沢町3丁目、若松町、薬研堀町、矢之倉町、村松町を合わせて、東日本橋1丁目とし、両国を東日本橋2丁目、橘町の大部分(一部が久松町として残りました。)を東日本橋3丁目とし、江戸時代から親しまれて来た古い町名が東日本橋に統一され、両国とよぶことも町名としてはなくなったのです。 その上昭和47年7月、船橋と東京駅を結ぶ国電が開通して東日本橋駅が出来たため東日本橋の地名が定着していきました。


東日本橋1丁目

 村松町・矢ノ倉町・薬研堀町などが知られた町で、村松町は西本願寺の末寺が築地へ移った後、名主村松源六が開いた町といわれ、明暦大火後のことで、次第に賑やかになったのは元禄になったからとおい話です。なまくら刀を売る店がずらりと並んで、町人用の外装だけ立派な刀を売るので有名になり、「出来合いのたましい村松町で売り」などと川柳でもひやかされる商店の多い町でした。  矢ノ倉町は元禄11年(1698)まであった米蔵が移転、そのあと武家の邸宅となり大名屋敷がありましたが、明治になって薬研堀町に近い方は賑やかな商店街になっていきました。薬研堀町は米蔵への入堀でVの字形に堀が出来ていたので、薬研に似た形として名がついたといいます。明和8年(1771)堀の一部が埋立てられ町地となり、あとは殆ど武家地で医者が圧倒的に多く、医者町などとよばれました。 ここは金比羅神社があり、不動尊が祀られ武家の信者が多かったので有名でした。天保の改革で一時本所に移り維新後再度旧地に戻ったという話で、毎月28日の縁日は賑やかですが、特に暮の27・28・29日の賑いは大変なものです。今もなお続いて賑わっています。  面白いことに薬研堀町が江戸時代医者町とよばれていたのに、後には七色とうがらしの店が有名で、明治以降大正へかけて、矢の倉に開院する医者が多く、むしろ矢の倉町の方が医者町とよぶにふさわしい町になったようです。


東日本橋2丁目

 旧来の両国とよんだ町です。元柳町、新柳町、吉川町、米沢町、1、2、3丁目、薬研堀町、若松町など、全部または一部が含まれます。両国と両国橋の西側の町を一般的によんで、明暦大火後万治2年(1659)に橋がかかり、交通上繁華な地になりましたが、火事の多い江戸のこと、明暦大火で多くの死者を出したことに鑑みて二度と災害の悲劇をくりかえさぬ様にと各所に火除地を設けたのですが、両国にも中央区側に広小路が出来て、防火や避難に役立つ広場が設けられました。いつの間にかこの空地を利用して小屋がけで軽業や見世物小屋が並び、水茶屋、喰べ物見世、揚弓場などで江戸一番の賑やかな場所になっていきました。もっとも将軍舟遊の乗船場がすぐ近くにあるため、将軍お成りの日には全部取り払われ、将軍が帰還後は再び興業が許されるといった具合でしたが、その賑やかなこと、混雑ぶりは大変なもので、いろいろな本に出ているほどでした。河岸を新柳河岸とよび、明治の末頃には寄席の新柳亭があって評判だったといいます。  維新後は全く商店の並ぶ繁華な市街に変わって、面目一新した賑やかな商店街になっていったのです。  また米沢町は3町に分れ、多くは船宿の中心地で、両国の川開きや花火と共に忘れることの出来ぬ町で、船宿はいずれも二階があり、家人は階下に住み、客がくると2階に通して接待したといいます。  米沢町から元柳町にかけて船宿と共に有名な柳橋花街で、これが両国の景況を明治になって支えていたといえます。  米沢町で一言すべきは堀部安兵衛のことで、矢の蔵の米蔵が元禄11年(1698)築地に移ったあとが武家地や町地となり、米沢町の町名も出来たのですが、ここに堀部弥兵衛が娘の養子となった安兵衛と一緒に住んでいたことは「赤穂義人纂書」にのっています。よくわかりませんが、安兵衛が弥兵衛と一緒に米沢町に居住していたことを信ずる人は多くは次の文書によるようです。 堀部弥兵衛金丸親類書  妻、御当地米沢町に罷在候。  1、世伜 養子当24才 堀部安兵衛  1、娘 江戸米沢町に罷在候 右安兵衛妻  これが、どこまで信用出来るものかどうか、私にはよくわかりません。  なお、柳橋花街の発展は天保改革で門前仲町の芸者達が弾圧を逃れて、こちら側に次第に移る者があり、明治になって一層賑やかな花街に発展したといわれています。両国の花火と柳橋の料亭については、いろいろのエピソードが残されていますが、防潮堤などのため、ここで花火が見られないのは残念です。(中央区は戦後新しく晴海で花火を打ちあげる大会を催して居ります。)


東日本橋3丁目

 古くは橘町とよばれた地域で、昭和46年4月の住居表示実施で現町名になったところです。江戸の初期には西本願寺の別院やその末寺があったところでした。この西本願寺別院は元和7年(1621)3月准如上人が創建したもので、江戸海岸御坊、更には浜町御坊とよばれたといいます。明暦の大火で堂宇は灰燼に帰し、築地に移転復興したのです。  その跡地は松平越前守の邸地となり、天和3年(1683)に邸地移転に伴って、町地になりました。西本願寺のあった頃、門前に立花を売る店が多かったので、町の名を橘町とつけたのだそうです。  よくわかりませんが、元禄のころの話では、商店ばかりでなく、住宅地もあって静かな町だったようで、菱川師宜が住んでいたとか、俳人松尾芭蕉もこの町に住んでいたなどという話もあります。  橘町といえば踊り子の町として有名でした。踊り子といえば、歌舞音曲で客をもてなし、寄合茶屋や船遊山の席へ出るもののことですが、橘町などの踊り子は、その容姿を売り物に売色を専門にする若い娘達で、随分風紀をみだしたといわれています。「裃の膝に踊り子腰をかけ」といった川柳が、その実態を示しています。  元禄もすぎ、享保ごろからは色々な店が出来て賑やかになっていったようです、橘町3丁目の大坂屋平六の店は、薬屋としては江戸中に知られた店だったようで、中でもズボウトウというせきやたんの薬は特に有名で、「平六がとこ、ずぼうとう能く売れる」などと川柳でも評判しています。


明治以降

 明治になって、何よりも大きな変化は、見世物小屋などのずらりと並んだ小屋がけの娯楽街がなくなっていって、町屋に変化し、商店街になっていったことでした。市区改正などで市街地になりましたが、賑やかな町であったことはいろいろ語り伝えられています。  明治になってからの両国辺、江戸時代の小屋がけの遊び場、寄席や見世物や茶店などで、見ては食べ、或は芝居から落語や講談まであったという雑踏の場所、いや、らくだや象まで、世界の珍獣まで見られたという江戸随一のにぎやかな街も、次第に変わりました。何よりも商店が軒をつらねる市街に変っていったことです。  しかし昔の盛り場、ちゃんとした市街になっても全く賑やかさは変らず、どんどん発展していきました。  柳橋附近の花街の盛況と共に、両国辺の賑やかさは、市街の改正で、一層賑やかさを増したといえます。『中央区30年史』にも、次のようにのべています。  「明治時代、両国橋から浅草橋の間にかけて、元柳町・吉川町が三条の市街地を作って並んでいた。明治30年の市区改正で、両国橋詰から元柳町を貫いて柳原通りを経て昌平橋際に至る路線が、1等2級(幅員15間以上)と定められ、36年には神田橋方面から来る路面電車が開通し、地区は一層の賑やかさを増すのであった。」  こうして、両国界隈の中央区側はむしろ明治30年代頃でも、柳橋花街の発展と共にすばらしい活況を呈したといえます。  今明治32年に出た『新撰東京名所図会』によって当時に景況を見ましょう。  往時は、観物、辻講釈、百日芝居と甚だ雑踏の巷なりしも、近年旧態を一掃して、商家櫛比、殷賑の市街とはなりにき。米沢町には五臓円本舗大木口哲、横山錦柵が生命の親玉を始め売薬商の看板、四方商舗が和洋酒類缶詰、ならびて勧業場両国館、落語席の立花家、福本、新柳町に新柳亭あり、昼夜義太夫を聴かせ、生稲、千代川の料理、待合茶屋は柳橋に連なり、元柳町此辺は到処芸妓街にて、亀清楼柳光亭も近く、楼船にて遊客は浮れぬべし。吉川町には両国餅、同汁粉店は名代にて、紀文堂の煎餅、柳橋亭の天麩羅、松寿司と下戸も上戸も舌鼓せむ。金花館といへる観業場は、両国館と相対峙し、隣は大黒屋として新板ものを売出す絵草紙、さて浅草橋最寄には消防署派出の火見櫓は高く、両国郵便電話支局、いろは第八番の牛豚肉店、栽培せる柳樹数10株点綴する間、馬車鉄道は2条の鉄路を敷きて絶間なく往復し、又九段坂、本所緑町通ひの赤馬車は、両国橋際に停車して、本所行或は万世橋行と叫びて客を招き、大川端、橋の左右の袂には、大橋、吾妻橋行の隅田丸発着して、ここ3・4町の間、4通8達の街路として賑やかなり。夜間に及べば、数多の行商露店を張りて夜市を開く。  まだまだ両国橋附近の町々は随分賑やかな活気のある町でした。  大正から昭和にかけて、両国も次第に変化していったことや、特に戦後のビル・ビルと高層ビルの町になっていったのです。


東日本橋とよばれている地域は、昔は一口に両国とよばれた地域です。
両国橋が架かってから、両国という地名ができていったといえます。
まず東日本橋の昔を語るには、両国橋のことから話をはじめなくてはならないでしょう。

両国という呼び名、勿論両国橋がかかってからの名称です。 徳川幕府は、幕府転覆をねらう武士達が川向うから立ち上る危険を警戒して、初期には千住大橋から下流の隅田川には橋をかけさせませんでした。
それが明暦3年(1657)正月の大火に江戸中を焼きつくすほどの被害をうけて、浅草方面へ逃げようとした市民が浅草見附の門がとざされ、伝馬町の牢屋の囚人を救うため、一時にがしたのですが、それ等の囚人が 浅草の方へ争って逃げたため米のうばわれることを恐れて、門をしめたといわれています。そのため、多くの市民が隅田川のふちまで逃げて来たのに、どうすることも出来ず、後から後からと逃げてくる人々に押されて、隅田川の中に押し出され、水死するもの数知れず、船さえ猛火で焼けてしまって、九万人もの死者を出したと云われています。
そこで復興に当った松平信綱は、万一の災害に備えて、それ迄の方針を改め、橋を架けることにし、万治2年1658)の暮に、今の中央区側から隅田川側に、はじめて千住大橋下流に橋がかかりました。千住大橋下流で一番大きな橋というので、大橋とよばれたのですが、誰というとなく、平安朝のころ在原業平が東国に来て、「伊勢物語」の本を書いた時、武蔵の国と下総の国の間を流れる隅田川といったその言葉をとって、今は武蔵国でも、昔は武蔵と下総の間を隅田川が境に流れていた。だから両国の間を隅田川が流れていたことになる。「それなら両国を結ぶ橋だ」「両国橋だ」ということで、多くの人々が両国橋とよび、これが橋の名になったといわれています。
中央区側の両国橋のすぐそばに、矢の倉とよぶ米蔵があったため、この辺は少しさびしい場所でしたが、明暦大火後、火除地となり、次第に両国橋近くが賑やかになっていくにつれ、矢の倉とを元禄11年移転してからの後の両国橋と、それ以前の両国橋とでは、両国橋のかけられていた位置に多少違うようです。  明暦大火後、両国橋の西側、中央区側に防火対策として火除地が出来、広小路とよばれましたが、ただ広場にしておく、空地にしておくのはもったいないと何とか見せ物などに使いたいと願い出るものがあり、そこから小屋がけなら許可するということで、盛り場になっていきました。  何しろこの両国広小路、随分いろいろな見せ物があって、ラクダや象まで見世物として出た位で、結構江戸の人々、鎖国だといわれた当時、オランダを通じて珍奇な動物が公開されていたのです。  どこからどんな人が集まってくるのか、毎日大変な賑わいを呈したといっています。勤番の各藩の武士も居れば、商店の人や職人もあり、地方から出て来たお江戸見物に来た人々も、大勢ここへ集って来た娯楽場でした。
両国の川開きは、はじめは1日ではなく、5月28日から8月28日まで継続して川開きが行われ、その間、時々花火がうちあげられたといいます。享保18年(1733)打ちあげ花火が行われるようになったとする説が強いようです。打ちあげ花火は、横山町の鍵屋弥兵衛の店と両国広小路の玉屋市郎兵衛が請負って次第に技術を競うようになり、玉屋は橋の上流を、鍵屋橋は橋の下流を受持って、「満都の人気を集め」ていたのですが、玉屋は天保14年(1843)4月、将軍家斉日光社参の前夜自火で焼失、江戸構に処せられ、後に断絶、ついに鍵屋のみになったのでした。
しかし花火の人気は大変なもので、その費用も随分かかったといいますが、両国橋を中心とする船宿と料理茶屋がその費用を負担し、出金し、8割が船宿が支出するところときまっていたといいます。横山町の名物花火店として残った玉屋を中心に明治以降花火は東京市民の大好評を得て毎年柳橋の料亭と船宿と共に、ここに大衆をあつめて光の祭典を催したのです。 戦後は大きく変わって、町の様子も変わりました。

馬喰町も横山町も今は問屋街の中心をしめていますが、江戸時代からの姿を見ると、両町の間には違いがありました。

馬喰町

 馬喰町はいう迄もなく旅籠屋がずらりと並んでいた、いわば旅宿街でした。古くは馬喰たちが出入りする宿場町的様相があったといいますが、やがて郡代屋敷がおかれて、江戸と地方の商店などと公事訴訟事件などが起ると、次第にその地方から出てくる人のために宿屋が増加し、ずらりと並ぶ旅宿街だったといいます。古く家康入国ごろは、初音の馬場とよばれる馬場があり、馬の勢揃いなども行なわれ、この馬喰町のほかは、馬の売買が禁じられていたといいます。大阪との戦いが終ると平和が訪れ、馬喰などとは関係がなくても、奥州街道から江戸にくる人々のため、次第に通行人も多く、馬喰町辺の旅屋へ泊る人々が多くなっていったといいます。
 江戸が発展するにしたがって、江戸へくる人々が増加し、一層旅館がそうした人々を収容するため旅籠屋が増加し、訴訟に出て来た人ばかりでなく、附近に問屋街が集中するようになると、馬喰町の宿屋へ泊って、品物を宿屋へ持参させ、じっくり品物を選ぶといった傾向になり、問屋と宿屋がうまく地方の人々を此処に引きつけてきたのだそうです。
 明治になって新しい宿屋が別な処へ出来ていって江戸時代とは少し違っていきましたが、それでも日露戦争ごろは活況を呈して、かなりの数の宿屋があったといわれています。  明治の40年代でも、1丁目に刈豆屋、相模屋、伏見屋、下総屋、京屋、大松屋、上州屋、2丁目には藤森館、山城屋、桝屋、羽前屋、亀屋があり、3丁目には福井屋、大阪屋、福島屋、美濃屋、合津屋、河内屋、松崎屋、梅治、三鷹屋などが、まだ残って営業していたといいます。(中央区史による)  まだまだ、隣りの横山町に小間物など仕入れにくる商店の人々の宿泊する旅宿の街であったことはたしかです。


横山町

 横山町は、そうした関西方面の商品を売りさばく問屋といった店々が、馬喰町の宿屋に泊って、いろいろと品物を選び、買い入れる、いわば泊って品物を仕入れる人々が、続々とこの町に入りこんでくると、その人達の買う品物などをみて、それらの品物を客の要求に応じて売る問屋が、馬喰町とほとんど一つのような隣りの横山町にどんどん増加して、一つの問屋街となっていったともいえます。  江戸時代、投宿する客のニーズに答えて開店した横山町には小間物問屋、紙屋、煙草入問屋、地本双紙問屋などが目立つ存在だったといわれています。 幕末の「諸問屋名前帳」に出ている横山町の店々は次の通りで、「中央区30年史」によると 呉服問屋、塗物問屋、紙問屋、瀬戸物問屋、丸合組小間物問屋、通町組小間物問屋、地本双紙問屋、紙煙草入問屋、荒物問屋 苫問屋、地廻り米穀問屋、下り雪踏問屋、地漉紙仲問、板木屋  馬喰町の宿屋街とタイアップした問屋街がもうすっかりこの横山町に定着して紙とか小問物雑貨を主とした問屋街をつくりあげていったのです。


明治以降の発展

 馬喰町は明治になっても、横山町のように江戸時代の問屋が一層発展していったのに比べれば、まだまだ商人たちの旅宿の町といった江戸の面影がつづいていたようですが、横山町はどんどん問屋街として伸びてゆき、市区改正で浅草橋へ行く道がひろがるにつれて、問屋街は馬喰町へとのび、背中合せで、互いに発展していったといえます。  明治33年に出た「新撰東京名所図会」には次のような店が、横山町1丁目から3丁目までのうちから取りあげられています。

1丁目
万屋 帽子洋傘卸商、宝文堂 筆墨碩問屋、近江屋 和洋縫針小間物、小松録衛 靴鞄製造販売、明石屋 半襟商、柴木伊助 組絲問屋、鍵屋花火問屋 御用花火調整師、近江屋 小間物卸商、天野卯兵衛 小間物卸商、丸山伝兵衛 呉服木綿商、尾張屋 料理店

2丁目
高木商店 絹糸綿糸、高木大五郎 時計・自転車店、上総屋 べっこう、さんごじゆ、大島屋 鞄袋物・銀貨入卸商、岡本寛童 メリヤス製造販売、鶴田助次郎支店 糸綿商、金鯱堂 小間物商、盛真堂 小間物商、徳永保之助 ブラシ刷毛商、高見沢作三郎 メリヤス商、森本支店 小間物商、山本吉太郎 和洋帽子卸売商、青木金六 菓子卸商、佐野菊次郎 銅鉄商、福見定助 小間物商

3丁目
山丸商店 小間物商、若松屋 メリヤス商、辻岡文助 書籍商、大久保善作 茶商、東京商事銀行、 佐野大和堂 売薬化粧品商、万武支店 小間物卸問屋

 馬喰町が、明治時代を通じて、横山町の繊維問屋的な商店の進出を見ながらも、なお旅宿街として、東京ではかなり地方の広がる存在感を示していたことは、多くの人々が語るところです。  しかし、馬喰町が旅宿街でない、横山町の問屋街に近い街になってゆくことを決定づけたのは、大正3年末の東京駅の開業によるといわれています。一般に東京駅が東京の中央駅として見られるようになると、馬喰町の宿屋はどんどんへって行き、多くはいろいろの問屋にかわって、関東大震災後も残ったのは古くからの宿屋としては伏見屋一軒きりだったともいわれています。  そして横山町と馬喰町は一つ大きな繊維を主にした問屋街にと発展していくことになります。


横山町・馬喰町と養子制度

 今度の座談会でも、いろいろ養子制度についてお聞きしましたが、いまだに続いてるいる横山町・馬喰町の問屋街の特色に養子制度という慣習が残っています。『横山町・馬喰町史』(馬喰町紙問屋中村家資料) 日本橋の商店街などが、どんどん時代に応じて近代的商業、会社企業に転じていったのに比すれば、横山町・馬喰町の問屋街はむしろ幕末封建制度的形態を保ったままで、明治維新に及んだといえるのではないでしょうか。  今その問屋街としての在り方の一つの大きな特色である養子制度、或はのれん分け制度といった古い慣習をうまく残していった姿をとりあげてみましょう。  横山町・馬喰町の問屋街の旦那衆たち、いろいろの浮沈などがあって、自然に身について覚えたことなのでしょうが自分の店を維持して永続させて行くために、何としてもあとつぎを立派な商人にする必要があり、これが第1の方法で、そのためには、自分に娘があった場合、他の商店の伜で、これはと思う人物に目星をつけて、年中その人の評判などもきき、また店員などで気にいった人物があれば、それに注目、大丈夫と見込めば、ぜひ娘の婿にということで、それを養子として、場合によっては伜がいても、伜には店のあとをつがせず、他に店を出してやって、その店を守らせ、自分の店のあとはその養子に一切を任せるという方針をとる。これが有名な横山町・馬喰町の「養子制度」といわれているものです。  「週間朝日」(33年4月20日号「日本の企業」)で大宅壮一さんが、養子制度について新しい血を入れて、営業を時代に適したものにしていくことが大事なことで、それがあって永続が可能なのだといったこと、横山町・馬喰町の各商社商店にまだ残っている封建的ないろいろのしきたりを打ち破るには養子制度が必要で、それによって活路を見出すことが出来るといった新しい解釈で養子制度を見直し、多くの人々の注目するところとなったのです。


のれん分け制度

 もう一つの特色は、問屋街に独特ののれん分け制度があったことです。  のれん分けというのは系列会社、いわば◯◯一家といった形で、自分の店に永く実直に勤めて、家のために働き、店を大きく育てるのに役立った人に、ちゃんとした店をもたせて、金銭的に援助することは勿論、品物の仕入れについての面倒を見ることや、客の一部をさえ分けてやるということで、いわゆるのれんを一つにした店、系列会社を作っていくという方法をとって、業界に勢力をのばしていく方法ををとっていき、同じ商標を使って、分家した店といったことが一目でわかるような制度を確立して拡大していくことで、明治以降どんどんこうしたのれん分けによって、系列会社が親会社のもとでのびていったのでした。今でも横山町・馬喰町の問屋街の店々、何々一家とよばれ、一家のうち万一何か災難でもあると本家は徹底的に一家を動員して、その店の面倒をみてやり、安心して商売出来るようにしてやることで系列のつながりをはっきりと示しているのです。  ただし、独立させて貰ったのれん分けをうけた店が、同じ商品を売る店とはかぎりません。ある系列一家は、それ迄ののれん分けの店々に主家と同じ品物の店をつぐことを許可せずに、悉く系列店は主家と全く違った商品を販売することで一家となることが出来る店もあったようで、小間物から全く違う品物に転じた店などもあったのです。これは主家の商売をさまたげないようにして、主家を護りながら一家として伸びてゆくという方針が堅持されていたとも云われていて、のれん分けということなかなか一家として栄えていくのはむずかしい条件もあったようですが、互いに助けあいいろいろ面倒を見てもらいながら系列の中で伸びて行くという方針が守られている点で注目すべき制度といえましょう。


震災後の横山町

 震災復興した横山町・馬喰町は小間物を中心にした東京一の問屋街へと進むすばらしい躍進ぶりでしたが、多くの他の日本橋や銀座の商店が、ショーウインドウをとり入れ陳列方式を採り入れ、正札売りと陳列装飾で、新しい時代に代っていったのに対し、少し保守的な横山町は復興後も座売りを守り、タタミに座り、客がくると一々見本箱を開いて客の要求の「見本箱」を開いて商品を見せるといった具合で、しばらく古い慣習を守っていたようです。しかし大きく変ったのは現金問屋が増加したことで、昭和の大不況に掛売りで現金が期日がきても支払えない小売り屋が続出、問屋側も従来通りとすましていられず、掛売り全廃の現金問屋になるものが続出したのですが、「現金安売り問屋」の看板をかかげる問屋が多くなったいきました。しかし掛売りの問屋もかなりあり、戦後は掛売り問屋もかなり回復して、入り交りながら活況を呈しているといえましょう。


新道通り

 戦後の横山町と馬喰町の発展ぶりは目覚ましいものがあります。やはり震災後特に賑やかになった新道通りが雑踏をきわめています。  新道通りは横山町と馬喰町の境にある道路で、狭い通路というべきもの、溝に板を張り、その上を通行したので、俗に板新道と呼んでいます。明治になって発展した場所ですが、日露戦争後、馬喰町の玩具店から出火し、その後、溝板をはがして石に代えた所を石新道、溝の上に穴のあいた鉄板をしいた処を鉄新道とよびもとの板のままの場所をそのまま、板新道とよんだそうです。震災後は道も広がりすっかり、そうした呼称はなくなっていった上、今のように新道通りとよばれて、ここが、現在でも軒さきまで商品がつまれるほどの混雑をし、横山町の一つの名物の通りになっていますが、それが単的に新しい馬喰町・横山町の問屋街の発展活況ぶりを示しているといえないでしょうか。

浜町の町割り

 浜町という町を一口にいえば、武家地と町地のあった町といった、入り交りの町で 、江戸時代は、この辺は久松町は元和3年(1617)ごろ、武家地の一部が町地に なったといわれています。かなり後までも武家地として残っていた所があり、町地で は刀脇差を売る店が多かったといいます。久松町の町裏には山伏の井戸があって有名 で、歯痛にきくというので、人々の信仰が厚く、大正のころまで、常に井戸に蓋をし て、上のに塩と楊枝が載せてあったという話です。後この辺文人医者の住居する者が 多くなったといいます。
 浜町1丁目という町は、大名の蔵屋敷で占められた部分が多く、正徳になって間部 下総守屋敷となった一帯、大川端元柳橋から南数町の間の河岸を間部河岸と呼んだと いいます。  浜町2丁目は大体武家屋敷といってよく、2丁目・3丁目の境から大川に新大橋が 架かっていたので知られていました。  浜町3丁目も武家地で、菖蒲河岸があった町です。
中州町は旧三叉中州で有名な歓楽地でしたが、後撤去されてしまったのを、明治19年再び埋め立てて町としたもので、昔ほどの盛大さは到底ありませんでした。  こうした過程で明治に移ったのです。 明治以降、次第に一部はいきな町になっていった所もありました。  大体隅田川よりは花柳界的色彩のある街で、明治時代には一部にはお屋敷町的な姿 もまだ残っていた街といえます。


山伏の井戸

 山伏の井戸は、浜町2丁目と久松町の間の路地にあったという話です。家康入国後 、紀州根来の山伏百人にこの一帯を与え居宅を許したといわれ、根来同心と称したと いいます。山伏の飲用に使用した井戸があり「山伏の井戸」とよばれていたといいま す。江戸抄子に「山伏の井、はま町。堀淡路守殿うしろに有、此井名水なりしが、中 ごろ水あしく成しに、山伏祈り直しける。」とあります。


浜町の事件 -「明治一代女」-

 「明治一代女」で有名な花井お梅の峯吉殺しが明治の大きな事件でした。 明治20年6月9日夜九時すぎ、浜町2丁目の細川邸近くの横町といわれている場 所で、酔月楼の女将花井お梅が雇用人八杉峯三郎を刺殺するという事件がおきました 。  これが当時新聞紙上大騒ぎになった「花井お梅の峯吉殺し」といわれた事件でした 。お梅が美人だった事もあって、裁判の時などは傍聴人の行列が出来るほどだったと いいます。しかし殺した場所は当時の新聞をみても浜町2丁目13の酔月楼から車夫 に依頼して自分の店で雇用していた峯吉を呼び出し、浜町2丁目細川邸のわきで刺し 殺したというのですが、どうも明確ではありません。一般には峯吉にいいよられて殺 したという説が多いのですが、裁判所の判決によると、実父との間がうまく行かず、 峯吉(八杉峯三郎)が自分と父の仲をさいていると思い込み、峯吉を殺したというの が本当のようです。浜町という町を知らない人々も浜町というと花井お梅(芝居では 仮名屋小梅)というほど明治大正の人々には知られていたのです。


浜町と人物

 浜町というと、様々な人物が出てくるのですが、何といっても、都指定の旧蹟、賀 茂真淵の県居の跡が有名ですが、何も残っていないのは残念です。真淵は元文3年( 1738)江戸に下り、はじめ小舟町の村田春道の家におり、まもなく与力加藤枝直 や千蔭の家の近くに移り、更に浜町に移ったのは明和元年(1764)ともいわれて います。本矢の倉の山伏井戸と呼ばれた場所で、旗本の細田主水の土地を百坪ばかり 借りて建てたのが門弟300人といわれた有名な県居といわれています。  その他、佐藤一斉も浜町の藩邸で生まれたといわれています。


震災復興と金座通り

 浜町が震災で大きな打撃を被ったのに、今の大通り「金座通り」に見るように整然 とした街づくりが行われ、すばらしい通りが出来、その上浜町公園という大公園が出 来たことは、全く地主たちの協力によるといわれています。ことに佐藤病院の院長で あった佐藤長祐氏の熱意が、所有宅地が減少しても将来のためにと説いて回ったため 、多くの地主が団結して、大きなトラブルなしにすっきり整然とした街並みが出来上 ったといわれています。


明治座

 浜町といえば何といっても明治座を語らねばならないでしょう。市川左団次が、歌 舞伎座を離れて独立した劇場をここに経営し、ここを根拠地にして活躍しようとした のです。
 明治座の出来る前に、久松町河岸に喜昇座という劇場が明治六年四月からありそ れが久松座となった明治12年のこと、一時は随分人気があったのが、経営困難で廃 座を止むなくされ、16年1月で幕をとじました。16年2月になって久松座のあと に千歳座が劇場を建てることになりました。18年新しい経営者により2月8日初日 で大当りとなり、以後種々の出入りをくりかえし、市民に圧倒的人気を博したのです が、23年5月焼失、永久に姿を消すことになりました。しかしその後左団次が新 しい劇場を建てるよう努力、26年11月華々しく開業、左団次に団十郎を加えて 「遠山桜天保日記」などを上演して大評判でしたが、歌舞伎座と拮抗する勢の時代は 僅かで、37年8月左団次の没後、莚升が左団次をつぎ、新らしい芝居が続々と上演され、明治末の東京劇壇に華やかな光を彩ったのでした。
 こうして、浜町は明治座があるため、多くの人に親しまれ、「歌舞伎座と市村座と を折衷したような洋風の構造で、ねずみ色の外がまえ」といった建物が、大いに市民 の人気をよんだのでした。

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